村上純子バレエスタジオ
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村上純子
バレエスタジオ

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バレエとオードリー・ヘプバーン

オードリー・ヘプバーン(1929年5月4日生まれ)

 

 

 

 

 

彼女はベルギーのブリュッセルのイクセルで生まれました。

 

両親の仕事の関係などでベルギー、イギリス、オランダの3ヵ国を行き来する生活を送り

 

その後、父親が家を出ていき母親と一緒にイギリスのケントへ移住しますが

 

第二次世界大戦中のためドイツからの侵略を免れるために

 

1939年、母親の実家であるオランダのアーネムに移住してアーネム音楽院に通いながら10歳からバレエを始めます。

 

しかし1940年、ナチスの占領のため母親の実家の所有地と資産が全て没収されてしまいます。

 

オードリーの兄のイアンはドイツの強制労働収容所に連行され

 

弟のアレキサンダーはオランダで勤務していましたが、オランダに降伏後もレジスタンス活動をしていたと言われています。

 

そして、叔父と従兄弟が反ドイツのレジスタンス活動をしていたとしてオードリーの目の前で処刑されてしまうのです。

 

ナチス軍がユダヤ人を強制連行したり、多くの若者たちが逮捕、処刑されていく

 

現代の人々には想像できないほどの凄まじい戦争中であっても

 

彼女はバレエを続けていました。

 

 

 

 

 

 

当時、オランダでは徐々に有名になっていたオードリーは秘密でバレエの公演を行っていました。

 

戦時中で娯楽は禁止とされていたので、邸宅や地下室のような場所で、拍手も歓声もない中ひっそりと

 

人々に楽しみ、勇気を与え、生活費を稼ぐ

 

そして、その資金を反ドイツのレジスタンスに渡して、イギリス軍のメッセンジャーを務めていました。

 

 

 

 

 

 

靴の中にメッセンジャーを隠して運び、森に隠れていたイギリス軍の空挺部隊に渡しますが

 

ある日、その帰り道にナチス軍に捕まり連行されてしまいます。

 

なんとか脱走に成功したオードリーは25日間地下室に隠れて、たまたま持っていた一切れのパンとジュースで生き延びます。

 

そして無事に母親のもとへ帰ることができますが

 

この対戦中で5年間は地下室で暮らし、チューリップの球根を食べて空腹を満たしていたため

 

栄養失調となり黄疸、重度の貧血となってしまったまま終戦を迎えます。

 

その後遺症は長く続いたそうです。

 

1945年の終戦後はオランダのアムステルダムに移り、16歳となったオードリーはオランダでは有数のバレリーナとなりました。

 

 

 

 

 

 

戦争によりあまりにも悲惨な体験をしてしまったオードリーはバレエでその過去を忘れ、前を向いて生きていくための力にしていったのです。

 

しかし、オードリーは170㎝という身長で当時のバレエ界では背が高すぎるという理由があり

 

プリマバレリーナにはなることが出来ないと言われてしまいます。

 

さらに、戦時中の栄養失調のダメージもあり踊るための体力に影響が出ていたのです。

 

そのため、オードリーは20歳になる前からショーや写真のモデルを始め俳優学校にも入り演劇を学びながら

 

ブロードウェイミュージカルのロンドン公演の脇役でデビューを果たします。

 

その舞台を観に来ていたイギリスのプロデューサーに気に入られ、イギリスの舞台や映画にも出演するようになります。

 

 

 

 

 

 

1949年にはファッション雑誌の「VOGUE」に掲載されると次々とオファーが舞い込みます。

 

1951年のブロードウェイ舞台作品の「ジジ」では原作者に見初められて、主役に抜擢されました。

 

1952年、オードリーが22歳のときについに「ローマの休日」のロケが始まるのです。

 

 

 

 

 

 

1953年に上映された「ローマの休日」はアカデミー主演女優賞を受賞しました。

 

 

 

 

 

 

この映画は第二次世界大戦後のイタリア経済復興、アメリカ人観光客誘致のために作られたと言われています。

 

また、米国映画協会の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインされており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしています。

 

 

 

 

 

 

彼女は2回の結婚と離婚を経て2人の息子がいます。

 

有名な「ティファニーで朝食を」は出産3ヶ月後に撮影された映画のようです。

 

 

 

 

 

 

さすがダンサー、この背中はバレリーナですね。

 

 

 

 

 

 

有名な「アンネの日記」を書いたアンネ・フランクはオードリーと共通点がたくさんあるのです。

 

同じ年齢、同じオランダに住み、第二次世界大戦を経験しています。

 

しかし、オードリーは生き残れてもアンネは助かりませんでした。

 

 

 

 

 

オードリーには「アンネの日記」のアンネ役のオファーが何度もきましたが

 

あまりにもアンネと自分の戦争体験が重なりすぎていて、演じられなかったようです。

 

晩年は年齢と共に女優業を徐々に減らしていき1954年からユニセフへの貢献を始めます。

 

アフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動をして1988年にはユニセフ親善大使に任命されます。

 

それ以降は女優業を引退して、身体がガンにおかされても

 

ソマリア、イギリス、ケニア、フランス、スイス、アメリカなどをまわって戦争や貧窮で食糧危機の人々のために慈善活動を行っていました。

 

彼女はこのときに「自分が何のために有名になったのかが分かった」と言っています。

 

 

 

 

 

 

そして、63歳のときに2人の息子と最愛のパートナーに看取られて永遠の眠りにつきました。

 

 

 

 

 

 

オードリー・ヘプバーンの言葉をお伝えしますね。

 

バレリーナの基本ルール

「不平を漏らさない、疲れを顔に出さない、舞台の前夜は遊びに行かない、ソニアは本気で努力すれば必ず成功するのだと教えてくれたわ」

 

「それに全ては内面から湧き出てくるということもね」

 

 

 

 

 

 

「優雅さこそが、決して色あせない美しさに繋がるもの」

 

 

 

 

 

 

「美しい目をするには他人のよいところを見ること、美しい唇にするには優しい言葉しか喋らないこと、心のバランスを保つには決して自分は独りではないという意識で歩くこと」

 

 

 

 

 

 

「一個の道具のように自分を分析しなさい、自分自身に対して100%率直でなければなりません、欠点を隠そうとせずに正面から向き合うのです」

 

 

 

 

 

 

 

「ダンサーは技術的な多くのことを習慣で行うようになります。私たちはリラックスするときに決してだらしなくはなりません」

 

「私の場合でいえば、バレエの先生のマダム・ランバートが弟子たちが腕を組んで肩を落としているのを見つけるとムチで指の関節をピシリと叩いたからです」

 

「ダンサーは自分の姿勢が優雅でないときは、すぐにそれに気がつくようになっているのです」

 

 

 

 

 

 

「愛は行動なのよ、言葉だけではだめなの、言葉だけですんだことなんて一度だってなかったわ」

 

「私たちは生まれたときから愛する力が備わっている、それでも筋肉と同じで鍛えてないと衰えていってしまうの」

 

 

 

 

戦時中にオードリーが秘密でバレエの公演を邸宅や地下室で行っていましたよね。

 

拍手や歓声のない中、ひっそりと

 

戦争により自由、楽しみ、家族、資産、仕事などを奪われてしまう

 

この現代と重なってしまうこともあるかもしれませんね。

 

戦時中であってもオードリーのように美しく、強く、心優しいバレリーナが生き抜いてチャンスを掴んで成功しています。

 

バレエの美しい姿勢は身体の軸と一緒にブレない心の軸も作られます。

 

鋭い感性、想像力、思考力、思いやり、意識

 

あたたかい人間らしさを忘れずに

 

胸を張って日々を過ごしていきましょう。